炎のストッパー・津田恒美。「カープの伝説」に向き合う息子の挑戦

ずっと拒んでいた父の生き様を背負うまでの葛藤、覚悟

「カープ女子」という言葉が流行る約30年前の話だ。

その男の直球は、“史上最強の助っ人外国人”と言われた阪神タイガースのランディー・バースに「Crazy!」と言わしめた。

その男の直球は、ファウルした読売ジャイアンツの4番打者・原辰徳の左手を骨折に追い込んだ。

そして、人はいつからかその男を「炎のストッパー」と呼ぶようになった。

男の名は、津田恒美(つだ・つねみ)、背番号14。

1980年代、プロ野球・広島東洋カープのリリーフエースとして大活躍し、黄金期を築いた選手だ。闘志むき出しで打者に立ち向かう姿勢、ピンチになるほど球威を増していくストレート、マウンド上で躍動するようなフォーム……彼のピッチングにカープファンは熱狂した。


広島カープの本拠地・MAZDA Zoom-Zoom スタジアム敷地内の球団史が刻まれた石碑には、津田恒美投手がリーグ優勝時に胴上げ投手になった瞬間の写真が飾られている

しかし、もう彼のピッチングを目にすることはできない。現役を引退したからではない。悪性の脳腫瘍で、1993年にこの世を去ってしまったからだ。32歳という若さだった。

津田恒美投手の死から24年の歳月が経った2017年6月19日、ひとりの男が立ち上がった。彼の名は、津田大毅(つだ・だいき)。津田恒美投手の一人息子だ。

大毅さんは、父・津田恒美投手の記念館を設立するためにクラウドファンディングをスタート。「父のことを忘れないでほしい」と奔走した結果、目標金額400万円に対して、出資額は2627万5000円。達成率は656%という驚異の数字を残した。

しかし、大毅さんは初めから父親の記念館をつくろうと思っていたわけではない。野球に青春を捧げた学生時代は、父親と比べられることが何よりも苦痛だったという。むしろ「津田恒美の息子」であることを拒んだり、隠したりして過ごした過去もあった。

父親の存在から逃げ続けた彼が「僕は津田恒美の息子です」と名乗り、記念館設立に取り組むようになるまでの葛藤、そして覚悟に迫りたい。

父は父、僕は僕……のはずなのに

かつてはお父さんのことを受け入れられなかったという話、正直驚きました。

常に父と比べられるのがツラかったですね。

楽しいからという理由で始めた野球だったのに、周囲からはものすごく期待されてしまう。ピッチャーを任されたり、背番号もなぜか父と同じ14だったり……。

一番ショックだったのは中学生の頃に保護者から「がんばってお父さんみたいになってね」と言われたことです。確かに身長とか体格とかは似ていたみたいですけど、身体能力はそれほどでもなかった。父は父、僕は僕なのに……といつも感じていました。

確かに……。でも「お父さんみたいになって」と声をかけてしまう人の気持ちも、正直理解はできちゃいます……。

僕も悪気がないことはわかっているんです。ただ、当時は思春期でひねくれていたので(笑)。

僕は怪我をしがちで、大学生の頃にピッチングフォームをオーソドックスなオーバースローから、横から投げるサイドスローに変えたんです。フォームの特性上、スピードは出なくなることは野球好きなら知っているはずなのに、周りからは「お父さんのようにストレートで押していくの?」みたいなことを言われて……結構グサっときましたね。

なんというか……周囲も「津田恒美の息子なら父親のようになりたいんだろう」と勝手に決めつけてしまっているんでしょうね……。

野球を続ける以上、父と比べられることは避けられなかったんでしょうね。

大学卒業して野球を辞めてからは、そういった葛藤ってなくなりました?

それがそうでもなかったんです(笑)。自分で言うのもおかしいですが、社会に出てからもえこひいきされることはありました。

就職したのは冠婚葬祭の会社で、そこそこ規模も大きかった。普通だったら、新入社員が社長と食事するなんてなかなかできない会社です。でも、僕は違いました。まだ勤務時間なのに、同期はもちろん、先輩や上司も差し置いて、社長と食事に行ってたんですよ。もし自分が先輩や上司の立場だったら、絶対におもしろくないですよね。

社長がお父さんのファンだった、と。

知っている人は知っているということなんでしょうね。僕も野球から離れれば関係ないと思ったんですが……自分は「津田恒美」という看板を一生背負わなければいけない運命なんだと愕然としました。

父から逃げていても、何も変わらなかった

では「津田恒美」から目を背けていた大毅さんが、なぜ記念館を?

理由としては2つあります。

1つ目は、父のファンでいてくれる方たちの存在を知ったからですね。

大学編入のタイミングで九州から埼玉に出てきたのですが、入部した大学野球部の監督が父も現役時代にお世話になった古葉竹識(こば・たけし)さんでした。それから古葉監督に、津田恒美のファンという方をご紹介いただく機会が増えたんです。なかには、父の実家やお墓がある山口県周南市まで足を運ばれたという方もいましたね。

また、東京ドームや神宮球場へカープの試合を観に行くと、いまだに父のレプリカユニフォームを着てくれている人もいて……そういうファンの方たちから「津田恒美のグローブやトロフィーが見たい」と声をかけてもらえたのは原動力になりました。

もう1つ……こちらが理由としては大きいのですが、僕自身の考え方に変化があったからです。

27歳のある日、ふとこれまでの人生を振り返っていたんです。ずっと父から目を背けてきて、職も転々としている自分の現状を客観的に見て「このまま逃げていても何も変わらないな」と思ったんです。そして「だったら、逃げるのではなく向き合おう」と。

これまでとは考え方が180度変わってしまったと……何かきっかけがあったんですか?

いや、具体的なターニングポイントみたいなものは何もないんです。いろんな人の話を聞いて、自分で考えて……を繰り返して出した答えでした。強いて挙げるなら……年齢ですかね。20代の半ばを超えて、ようやく父と向き合う余裕が出てきたのかもしれません。

それで「津田恒美の息子」である自分にしかできないことをやろう、ファンの方たちが父の思い出に浸れるような記念館をつくろうと決心しました。

「津田恒美の息子」は自分しか背負えない看板

クラウドファンディングで出資を募った経緯についても教えてください。

当初は、山口にある実家を改装して細々とやればいいと思っていたんです。

しかし、いろいろな方から、カープの本拠地である広島に津田恒美の思い出に触れられる場所がないのは寂しいという意見をいただきまして。思い切って広島に設立することを決めました。

当然、イチから物件を用意するとなると、当初の想定よりも資金が必要になります。最初に思いついたのが寄付という方法でした。

でも僕は、寄付でただお金を集めるよりも、出資者にもメリットがあるカタチにしたかった。そういう意味でクラウドファンディングは最適な方法だったというわけです。

わかりやすい出資者のメリットといえばリターンですが、今回のプロジェクトでは津田恒美投手のレプリカユニフォームをご用意されています。これは当然、広島カープの許可が……?

もちろん許可を取りましたよ。最初は球団の窓口に「津田恒美の息子ですけど、今度父親の記念館をつくりたくて……」と連絡して。

知り合いや関係者を通じて、などではなく正面からアポをとったんですね……! 正直、プロ野球球団のような巨大な組織が個人のために動いてくれるイメージはなかったので驚きました。

はっきり言って、特例だと思いますよ(笑)。ファンの方の想い、そして父の人徳が球団関係者を動かしたんだと感じています。「広島に津田恒美が生きた証を残そう」と。

僕がやったことといえば、「津田恒美の息子です」と名乗ったことぐらい。でも、今回ほど「津田恒美の息子」であることのメリットを実感したことはありませんでした。ずっと重荷だと感じていた父の看板が、僕にしか背負えないものだったことに初めて気づきましたね。

確かに「津田恒美の息子」と名乗れるのは大毅さんだけですからね。それにしても、クラウドファンディングの結果がすごいですよね。

津田恒美の古くからのファンって、当時50〜60歳くらいなので、今は70〜80歳くらいなんです。インターネットに馴染みのない世代が多いことを考えると、クラウドファンディングの大成功は30〜40代のファンの方たちが出資してくれたおかげだと感じています。本当にありがたかった。

ただ、本音を言うと、リターン品の制作や送料、さらにはクラウドファンディングの手数料などを差し引くと、手元に残るのは1000万円程度。ファンの方たちに納得していただける記念館をつくるためには、もう少しお金を集めなければいけません。

また、「出資したくてもクラウドファンディングのやり方がわからなかった」という世代の方たちもいるので、彼らとどう寄り添っていくかは今後の課題ですね。

自転車日本一周で知った、偉大な父の背中


2017年6月から12月まで、約半年間かけて日本一周を達成。北は北海道の稚内、南は沖縄の波照間島までを走りきった

大毅さんは、同時期に自転車で日本一周にもチャレンジされていましたよね。どういう狙いがあったんですか?

狙いというよりも、待っているだけなのはイヤだったんですよね。

自分にはメディアに出るようなコネクションもないし、一箇所に留まっていることもニガテ。だったら、クラウドファンディングのPRも兼ねて、ずっとやってみたかった自転車での日本一周に挑戦しちゃえ、と。

旅の間はTwitterInstagramFacebookなどで「どこどこにいます」と発信していたのですが、SNSがきっかけで地域のラジオ出演が決まったり、新聞に取り上げてもらったりと、結果としていいことづくめでした。

同時に、全国各地に津田恒美のファンがいることを知れたのも良かった。特に印象的だったのは、新潟を南下していたときのことです。携帯していた空気入れが途中で壊れてしまって、しかも自転車屋も全くなく、もしパンクしたら自転車を押して何キロも歩かなければならない状況でした。


自身のピンチを知らせるために発信したツイート

そのことをSNSにアップしていたら、投稿を見た方が仕事終わりに空気入れを買って、片道2時間もかけて届けにきてくれたんです。僕も移動していますから、確実に会えるかどうかもわからないのに。しかも、感激してお礼を言ったら「お礼を言うのは僕のほうです。お父さんにはすごく勇気をもらったんで。こういうカタチでしか恩返しできないけど、がんばってください」って声をかけてくださって。

その瞬間、「親父には勝てないな」と思いましたね。それほどまで記憶に残っていて、想ってくれているファンの方がいるなんて。

すごいエピソード……。そうやって全国各地に足を運び、ファンの方たちと直接コミュニケーションをとることで関係性を築き、クラウドファンディングの大成功を導いたのかもしれませんね。そして、これからは?

まずは出店場所を決めること。そして、コンテンツを拡充させていきたいですね。

いわゆる記念館って、一度行ったら終わりじゃないですか。だからリピーター施策を考えたいと思います。

たとえばVRで津田恒美と対戦できるようなバッティングマシンをつくったり、当時のカープ選手を巻き込んでイベントをやったり、マツダスタジアムで野球教室を開催したり……そういう新しいチャレンジをやっていきたいです。

個人的には、僕が九州にいたときの大学の先輩である松山竜平選手や父親と同じ背番号の大瀬良大地投手のような、カープの現役選手とも何かやりたいですね。

津田恒美記念館をきっかけに広島へ足を運ぶ人も増えるでしょうね。完成を心から楽しみにしています。今日はありがとうございました!

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旧広島市民球場跡地には、ライトスタンドだけがポツンと残されている。

津田恒美投手が現役時代に打たれたり敗戦投手になってしまったりすると、翌日、誰よりも早く球場に現れ、このライトスタンドの階段を繰り返し走っていたという。

思い出の場所で、大毅さんにとって「津田恒美」はどういう存在なのかを聞いてみた。

「一番難しい質問ですね(笑)。遠いんだけど、一番近くで見守ってくれている存在でしょうか。僕の活動を支えてくれているのは、父のファンのみなさんであり、ファンのみなさんの心のなかにある父の記憶ですから」

「津田恒美の息子」という事実は変わらない。しかし大毅さんは、すべてを受け入れるという決断をし、新たな道を歩み始めた。「大変だったけど、やってよかったと思います」。そうほころぶ大毅さんの表情には、どこか炎のストッパー・津田恒美の面影があった。

没後24年炎のストッパー・津田恒美の記念館を作りたい‼
  • 支援総額/目標
    2627万5000円/400万円
  • 内容
    「もう一度、投げたかった」。志半ばで早すぎる死を遂げた父の野球人生を残したい

撮影協力:広島市

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書いた人 : 田中 嘉人

1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライターとしてキャリアをスタートする。その後、Webメディア編集チームへ異動。CAREER HACKをはじめとするWebメディアの編集・執筆に関わる。2017年5月1日、ライター/編集者として独立。

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