サバイバル登山家・服部文祥が「命の意味」を問い続ける理由

人間の命は本当に尊いのか?

服部文祥という男がいる。国内有数の登山家であり、文筆家。時計もテントもコンロも持たない最小限の装備で、数週間の山行をする「サバイバル登山」の提唱者だ。

「サバイバル登山」では、食料のほとんどが現地調達である。山菜やキノコを探し歩き、渓流でイワナを釣り、シカなどの野生動物を猟銃で撃ち殺して食べる。文明からできるだけ離れて、自力の限界に挑む。野生と一体化する。それが世界の高峰を制覇してきた服部さんがたどり着いた独自の登山スタイルだ。

そんなギリギリの登山を敢行しながら自分の存在を見つめ、文筆活動を行っている服部さんが今年6月、自身の思想を詰め込んだ小説を発表した。


『息子と狩猟に』(著・服部文祥/新潮社)

表題作は息子を連れてシカ狩りに来たハンターと、詐欺集団のリーダーによる命の駆け引きを描いたもの。犯罪集団を率いて人を騙すことを生業としている男の倫理と、野生動物の命に向き合う狩猟者の倫理。それらが人間の倫理が及ばない山中の極限下で絡み合い、真っ向からぶつかり合う。その力強い文章表現に込められているのは「命とは何か」という根源的な問いだ。本文から印象的な一節を抜粋しよう。

「マタギだろうと週末狩猟者だろうと、繰り返し生き物の命を奪い、その肉を食べることで、おなじひとつの洞察にたどりつくと倉内は思う。それは、生きるとは殺して食うことーー命には生と死が同居するという逃れようのない現実である。目の前で倒れた獲物は、殺生への戸惑いも、命への感謝も受け付けず、ただ静かに自分にもいつか死ぬ番がくるのだという覚悟を突きつけてくる」

「詐欺がはじめて成功したとき、オジイといっしょにやっていた罠猟や毛バリ釣りと似ていると加藤は思った。抜けたヤツを出し抜いて食い物にする。うまく逃げたヤツは、生き続ける。命はただ、そうやってぐるぐるまわる。なぜ人間はそうじゃない?」

これは人間の命は何よりも尊くて、優先的に守られるべきものであるというヒューマニズム的倫理観に一石を投じる作品である。服部さんはいかにして、現代社会では少数派ともいえるこうした独自の死生観を築き、この小説を書き上げるにいたったのか。横浜の閑静な住宅街の一角にある服部さんの自宅を訪ね、表現活動への思いを聞いた。

プロフィール
服部文祥(はっとり・ぶんしょう)
登山家。作家。山岳雑誌『岳人』編集者。1969年横浜生まれ。94年、東京都立大学フランス文学科卒(ワンダーフォーゲル部)。オールラウンドに高いレベルで登山を実践し、96年、世界第2位の高峰K2(8611m)登頂。99年から長期山行に装備と食料を極力持ち込まず、食料を現地調達する「サバイバル登山」をはじめる。妻、二男一女と横浜に在住。著書→

ヒューマニズムを野生動物にどう説明するのか?

服部さんの小説、とても興味深く読みました。人間の命とほかの生き物の命の重さの違いとか。そもそも命に重さなんてないんじゃないか、ということまで考えさせられて。

誰かが書評で、野生動物の命を奪う狩猟者の行為は、原罪であるだけに、それはいわゆる犯罪よりも罪深いと書いていた。たしかに狩猟は人間の約束事を超えた世界で「罪」を超えている。命はただ、命を食べて続いていく、それだけのこと。だとすれば、本当は人間も食べられる存在じゃないとおかしいんだけど、今は一方的に食べるばかりになっているね。

そうですね。

そうやって生物としての原則から遠ざかった結果に生まれたのが、ヒューマニズムだと思う。人間こそが素晴らしくて、人間こそが最高で、尊い存在である。だからその命は優先的に守られなければいけないという考え方。でもヒューマニズムって、突然銃で撃たれて殺されて食べられるイノシシとかシカに、どうやって説明する?

野生動物からしてみたら、なんでこちらがあなたたちの価値観に振り回されて、殺されなくちゃいけないのってことですよね。

俺が野生動物だったら笑うよ。結局、人間っていうのは人間にしか通用しない理屈で、いろんな約束事を勝手につくる生き物なんだよ。で、さらにその約束事に従って生きることが大好きでもあるんだ。

法律が好きで、人権が好きで、ヒューマニズム万歳で。でもそれが通用するのは、人間の世界だけ。野生動物にはまったく関係ない。

そういう約束事に意味はないというのは、狩猟なり、登山なりで人間社会を出て、圧倒的な野生に身を投じてみたらわかる。たとえば、狩猟のときって、狙われる側のケモノになりきる努力をするんだけど、そうすると人間とケモノの間にある境界線が消え去るんだよ。俺はそれを繰り返していくことによって、自分とケモノの命に違いはないという考え方を持つようになっていった。

人間とケモノの命に違いはない。

そう。生命は単なる現象で価値に違いなんかない。「かつて人はケモノになることができたし、ケモノも人になることができた」というのは、北米先住民の考え方だけど、結局、人間も文明を作り出す以前は、シカやイノシシなどの野生動物と何も変わらない存在だった。

それは現代人からみれば、野蛮な人間といえるかもしれない。でも、その本能的な野蛮さというものが、はたして現代社会において全面否定されるほどのものなのか。逆に我々が理性と思っているものは、全面的に肯定すべきものなのか。

俺はその答えはまだ出ていないと思っているので、その答えの出てなさ加減みたいなものを、文字表現にしたかった。そこにこの小説があるという感じかな。

なぜ、文章を書くのか?

小説を発表するのは今回が初めてということですが、表現手段としてこれまでの「サバイバル登山」のような実践とは異なり、小説という手段を用いたのにはどんな理由があるのですか?

小説はずっとやりたいことだったんだ。子供のときから、表現者に対する憧れが強くて、中学生、高校生くらいのときはアーティストになりたかった。でも美術の才能もあまりないし、音楽の才能もない。じゃあどうするといったときに、日本語表現だったらいけるかもしれないと思って、その道を志すことにしたんだよ。

それに、俺は本が好きだった。特に日本の文豪が書いた本のなかでいくつか、すごくおもしろいものがあってね。たとえば、芥川龍之介の『地獄変』とか、梶井基次郎の短編。すごくかっこいいと思った。こういうものが自分にも作れたら、どんなにいいだろうと。

なるほど。表現者志向だったのですね。

一方でペンを武器にしたジャーナリズムの世界にも憧れがあった。本多勝一に憧れた世代というのがあるんだけど、俺のなかではジャーナリストと検察官は正義の味方でね。若い頃はそういう職業もかっこいいと思っていたよ。

で、そういう世界を目指すような人は、学生時代に探検部に入ったりとか、山岳部に入ったりする。それがひとつの流れだったから、俺もその道に入っていった。もともと野遊びが好きだったし、釣りも虫取りも好きだったけど、本格的に山登りを始めたのはその頃だね。

そうしたらどんどん登山の方もおもしろくなって、気付いたら登山表現にどっぷりはまっていた。30年近く、登山やサバイバル登山をやった経験が蓄積して、ようやく、創作の下地ができたという感じかな。

だから今回の作品には、そんな俺がこれまでの人生で経験し、考えてきたことの多くが詰まっている。これまでに『サバイバル登山』や『アーバンサバイバル』といったノンフィクションやハウツーも出してきたけれど、今はそうした作品よりも、『息子と狩猟に』の方に、本当の俺があると思っている。

人間だから、考える

倫理観を揺さぶられる作品なので、さまざまな反響があるのではないですか?

はなからまったく理解できないというルール大好き人間が身内にいた(笑)。実の親父が理解できないって言ってたからね。否定せざるえないというか、感情的になって否定してくる人もいた。人間の法律に違反するようなことを、平気で文字表現にするっていうのはよくわからないってさ。

反発する人たちは、大切にしてきた何かを脅かされるのかもしれません。

特に言論空間で生きてきたようなインテリの人たちは、お勉強して、文明がつくりだしてきた世界で、安穏と生きていて、そこでお金稼いでうまくやってるのに、その価値観ってどうなのよって、この作品はひっくり返してきてるからね。

でも俺はやっぱり、人間相手なら凶悪犯罪であることが、なぜケモノ相手には許されるのかってのはわからない。

今のところの結論は「ケモノはそういう存在だから」ってことなんだけど、そうだと考えても、殺しで気分が晴れるなんてことはない。いつだってうしろめたい気持ちがある。かわいそうだなって思う。

だって、自分がシカだったらどうだろう。突然鉄砲を持ったやつが森に入ってきて、自分の子どもを撃ち殺して食べていく。俺にも子どもがいるから、それはやっぱり考えるよ。自分でもすごいことしてるなって。

無慈悲、無常の世界です。

ちょっと、許されないんじゃないかなって思うよね。でもそれを超えた先にしか、自分の命っていうものはないんだよ。

これは単純な弱肉強食の世界ではない。俺が強いからシカを殺して食べるってことではないよ。強さなんてものは簡単に定義できないから。

たとえば、小さい虫だったら、葉っぱの裏に隠れて雨をしのぐことができるけど、俺たちはでかいから、雨を避けられない。雨が避けられないと、体温を奪われて死ぬ。

結局、あらゆる生き物が、生き延びるためにどういう自分に適した方法をとっているのか、その違いでしかない。だから、自然界において、何かと何かを比較して、強いか弱いかというようなことを考えること自体がナンセンスだと思う。

そうなると、ヒューマニズムも揺らぎますね。どちらがえらいとかもないわけで。

そう。人間は前頭葉が多少大きいから、いろんなことを意識するようになったけど、それがえらいかというと、そうじゃない。それをいったら、ゾウは鼻が長いからえらいとか、キリンは首が長いからえらいということになる。

単純に人間は脳みそを大きくして、それをうまくつかって、生き延びてきた。その生存戦略がたまたまうまくいっただけ。でもその生存戦略が正解だったかどうかってことは誰にもわからない。むしろ俺はこのままいけば、人類は現世代を恨みながら滅亡すると思っている。

悲観的な未来ですが。

うん、それは仕方ない。人類の歴史において、俺たちの世代はかなり恥ずかしい世代だと思う。でも一方でそんなマクロな視点から見渡して嘆いてもあまり意味がないとも思う。だから、俺は等身大の自分に戻ってきて、目の前にある、自分のできることをやる。手を動かす。体を使う。自分で殺す。それでまた感じることもあるから考える。

狩猟もそう。いつもいろいろ考える。でも時間が経つと忘れてしまう。それでまたシカを殺して、ああ殺しってこうだったなって思い出す。肉を食って、うまいなって感じる。で、また忘れる。そんなことを繰り返しながらも、なにか澱のようにたまっていくものがあるから、そこからは目を背けないで考える。

でも、やっぱり答えは見つからない。いくら考えてもわからない。だから自分が納得できるところを探す。苦しくても、そのなかで心地よい苦しみを探す。そうやってわからないことと、わかることのバランスを取りながら、正直に生きていく。人間はそうやって生きていくしかないと思うんだ。

だから今回の小説だって、自分の経験や思考を踏まえた上で、書けるものしか書いていない。だけど自分なりにやれることは精一杯やった。その結果、自分に返ってくる声はどんなものであれ、俺にとってはおもしろいんだよ。

☆服部さんが実践する都会の狩猟生活「アーバンサバイバル」についての記事はこちら!
登山家・服部文祥に聞いた「都会でもサバイバル」する方法-「ジモコロ」
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/negishi26

書いた人 : 根岸 達朗

ライター。発酵おじさん。縄文好き。合気道白帯。妻、息子と東京・多摩地域に在住/negishi.tatsuro@gmail.com

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